身のまわりにはいつも何かが

身のまわりにあることを書いていきます。これから色々な分野に挑戦していきます。

英語学習の近況

以前、ひたすら英語を聴くだけの学習をしていると書いた。ただ聴くだけで意味も不明で辞書も調べないという学習方法である。まだ毎日聴き続けている。ではどう変化があっただろうか。

 

約2ヶ月が経過した。未だに一語一語全て明瞭に聴きとることはできないが全体の意味理解度として80パーセントは達成したと思っている。翻訳家や通訳者を目指しているわけではないのでこの英語に関しては合格としたい。自身で感じる変化は以前聴きとることができなかった言葉が2ヶ月目に突然聴き取れて理解できたと言うことである。これは不思議な感覚ですある。脳がどのような知覚をしているか興味深い。

 

次の段階はこの英語を聴き、書き起こすトレーニングへ移行する予定である。そして書き起こした文章を読み発声するといった流れである。不明な言葉は不明なままで良い。間違いは前提でとにかく手を動かし口を動かすのである。

 

さあ今日も聴くとしよう。

 

晩夏の始まり


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この写真は私の育てているひまわりの茎である。花ではなく茎の写真だ。ひまわりを育てている第一の目的は夏の代表と言っても過言ではない花を咲かすためだ。しかし目的を達成した今、ふとひまわりを眺めるとその全体に目を向けていなかったことに気がつく。花だけがひまわりではない。葉、茎等全てひまわりであることを再認識した。

 

そのように考えると何か新鮮な気持ちでひまわり全体を見ることができる。私が注目したのは茎である。直径は1センチ程であろうか。こんなに細いにもかかわらず私の身長に届く程丈がある。台風の日もあったが今日まで成長しまだ健在である。茎、そのしなやかで強かな存在は華やかさはないが私をとても惹きつける。

 

まだまだ暑い日は続く。私のひまわりの花は終盤に近い。それでもまだ魅力的なひまわりの側面に触れることができた晩夏の始まりであった。

ひまわり最高

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私のひまわりではない他人様のひまわりだが素晴らしいものがあったので写真を撮らせていただいた。

 

高さはおよそ3メートルはあるだろう。その茎は野球のバットのようである。比べると私のひまわりは赤ちゃんみたいである。ここまで大きいひまわりは壮観ではあるが私では育てることが環境面で難しい。

 

キリンの首は長く進化したか首が長いキリンが生き残ったかは議論の余地があるがこのひまわりはなぜここまで高くなったかということは非常に興味深い。太陽光線をより浴びるためか、地上からの敵から身を守るためか必ず理由があるはずである。

 

本当のところは誰にも分からないだろうが想像をめぐらし楽しむことも粋ではないか。

 

ひまわり最高である。

アゲハチョウ


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ついに犯人を発見した。犯人なんていったらひどい扱いである。訂正しよう。犯人ではなくアゲハチョウである。

 

私のレモンの木と花柚子の木に卵を産みつけいつの間にか幼虫になり葉を食べるのである。見つけるたびに捕まえてを繰り返していた。しかし今日まで蝶が実際に産みつけるために飛んでいるところを見たのは初めてである。私がカメラを持ちシャッターチャンスを待っていても怯まずに果敢に卵を産みつけようとしていた。

 

私としては全ての幼虫や卵を捕まえようとは思っていない。多少の食害は容認する考えである。丸裸にさえならなければ葉はたくさんあるので問題ないとの認識だ。

 

必死で生きている瞬間を見ることができて清々しい気分であった。

突然の朝顔に

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しばらく放っておいた朝顔がこのようになっていて驚いた。葉ばかりでつぼみをなかなか着けないため水やりは行っていたがあまり注意を向けていなかった。

 

そのような私の態度に腹を立てだのだろうか。こんなにも立派な花を咲かせたのである。

 

何とも言えない妖艶さがある。その衝撃は突然の出現により私の脳に倍の刺激を刻んだ。今日も素晴らしい1日のスタートであった。

ご馳走とは

物事の定義は難しい。絶対的な定義は不可能である。物事を定義することは相対的なことであると言える。これはこういうことであると決めると便利である上すっきりする。しかしそれが自分自身以外に理解してもらえるかと言うと恐らく無理である。その前提があるからこそ人は共感を欲するのではないか。

 

人間にはバックグラウンドがある。それは社会的なバックグラウンド、親や家族、そしてご先祖様と連綿と続く逃れられないバックグラウンドなど色々ある。自分はこのようなことが好きであると思ってもそこにバックグラウンドが影響している可能性は高い。つまりそれは全くの自分自身の個性ではなく潜在的な側面であることも否定できない。

 

最近漬け物を数種類購入した。ご飯のお供である。これまでも漬け物は好物で食べていた。再確認したのがご飯に漬け物があると何と充実しているのかということである。私の朝食はいつも納豆と味噌汁、ご飯である。しかしその3つでは最低限な感じがして少し寂しいのである。ここに色とりどりの漬け物(少し大げさ)があると華やかさが違う。味も大切だが色合いがこんなにも精神に影響を与えるとは恐れ入った。

 

私のご馳走の定義は納豆、味噌汁、ご飯と漬け物である。人に押しつけるわけではないし共感も期待していない。このご馳走に対し私が美味しいと思い幸せであれば良いだけである。だがこれとて私のバックグラウンドの影響があるに違いない。

 

つまり人に私の心を押しつけず、バックグラウンドを与えてくれた人に感謝し、今目の前を楽しむことに自覚的でありたいのだ。今朝、新生姜の辛味にしびれつつ思ったのであった。

夏休みの課題

私は夏休みの課題はいつもギリギリまでやらなかった。しかもイヤイヤやっていた。今となってはその内容もほとんど覚えていない。

やっている当時も何でこのような大変なことをやらなければいけないのかと常々感じていた。

 

2018年8月19日の毎日新聞朝刊オピニオン(読者投稿欄)にこのような内容の記事があった。

 

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中学生の投稿である。初めての夏休みの宿題は多く計画をきっちり立てて進めているが予定通りにはいかない。そこでこの中学生は気付く。時間の使い方を試行錯誤することも課題であるのではと。

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そこに気付くとは恐れ入った。しかも新聞に投稿し私を唸らせる文章力である。この中学生にはもう課題など不要ではないか。とても痛快ではないか。

 

私はこの中学生に(言う振りをして実は自分自身に対して)言いたい。

 

「失敗してもいい。次また失敗してもいい。失敗から何かしら気付くことができればそれはもう成功である」と。