身のまわりにはいつも何かが

身のまわりにあることを書いていきます。これから色々な分野に挑戦していきます。

昆布だし

だしにはこだわりたい。という考えだけは立派な私である。このこだわりは簡易的なだしの取り方、例えば顆粒だしやうま味調味料をできるだけ使わないことである。これらを否定はしない。なぜならばこだわりを持っていると言う割に顆粒だしを結構な頻度で使用しているからである。

矛盾だらけである。人間に一貫性などない。唯一あるとすれば人間は誰でもいつかは死を向かえるという一貫性だけである。

久しぶりの投稿のため適当ではあるが本題に入る。

私は昆布だしが好きだ。昆布だしを美味しく取ることは結構難しい。それでこのやり方が良い。
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一リットルポットに昆布をケチらずに使い冷蔵庫で数日置く。煮出さなくても良いようだが煮出した方が断然風味が違う。

お試しあれ。

心のバランス その4

絶望を緩和除去するには周囲のケアが必要だということである。人間にも受け継がれている適応行動ではないか。これはかなり以前に獲得したものであると想像する。猿に進化する以前の生物にもあった本能かもしれない。

 

絶望や悲しみは一人では解決できないのである。これは本能なので変えることはできないのではないか。このことから考えられることも多いと私は思う。絶望は自分一人では戦えないものだということに自覚的でありたい。

 

心のバランス その3

私の読んだことのある本に興味深い話がある。猿の行動の話である。

 

猿も親族の死を深く悲しむ。例えば子や兄弟姉妹の死である。多くの場合その集団の中で何らかのケアが行われ時間の経過とともに徐々に通常の生活に戻って行くという。しかし絶望のあまり集団を離れてしまい周囲のケアがない猿は衰弱死をしてしまう。

 

このことから何が考えられるだろうか。ゆっくりと考察したい。

心のバランス その2

以前にも書いたが進化の過程で獲得した適応行動なのではと私は思う。これが無いと事前対策ができず結果、事後の対応も後手に回るだろう。遥か昔には敵に食べられてしまう危険性もあっただろう。正に本能的行動である。全ての生物に存在する本能なのかは分からないが根源は生き残るためから身に付いたものではないか。

 

人間は脳が発達し高度な知能を獲得した。そのため本来生き残るための行動や思考が度を越し精神まで病むといったこともあるのではないか。また実際に心配事が現実となり絶望して精神を病むこともある。では絶望を克服や緩和する適応行動はないのだろうか。

 

次回に続く

心のバランス その1

久しぶりの更新である。季節は変わり寒いと感じる程の朝夕もあった。さて、環境が変わり考えた事がある。少しずつではあるが綴っていきたい。

 

人は心配をする生き物であると私は考える。些細な事、まだ起きてもいないことに怯え恐れる。しかし杞憂であった場合は何事も無かったように普段の生活に戻る。その杞憂に怯えた日々を忘れてしまうことさえあるのだ。何かすごく非効率的な行動とも言えるのではないか。よって心配は無駄だと考える人もいるだろう。そもそも何のためにこのような行動を多くの人が取るのであろうか。

 

続きは不定期ではあるがゆっくりと考えてみたい。

一時的に

環境が変わりそうなので毎日の更新は止める。しばらくは不定期で書くことにした。

 

ライフワークとも言えるブログなので閉鎖はしない。

 

心配と希望をもって幸せを実現する。

 

ただこれだけである。

気温と感情

かなり涼しくなってきたと感じるが暑さ寒さは相対的な感覚である。今年はとんでもない暑さがあってその印象が強く未だにそれを基準にしてしまう。

 

それも生きるために適応的であったと言うところに結局は落ち着くのであろう。不思議なのは心や気持ちも気温に影響されることである。秋口にはやはり一抹の物悲しさのような感情が湧き起こる。これも気温が少なからず関係すると思う。

 

また人それぞれ体感も異なるので同じ気温だとしてもそれぞれ感情が異なる。気温のセンサーが全く同じ感度であれば同じ感覚、感情しか起こらないかもしれない。そうなるともはや感情ではなくロボットのようである。

 

この気温と感情のメカニズムはよく分からないがそれを楽しむ能力は備わっているようだ。さあ今日も色々と感情を楽しむとするか。