身のまわりにはいつも何かが

身のまわりにあることを書いていきます。これから色々な分野に挑戦していきます。

遠隔教育、授業

2018年1月4日の読売新聞朝刊に遠隔授業についての記事があった。

 

内容は、文科省は今年度からインターネットを使用し一つの授業を複数のクラスで同時

中継で受ける遠隔授業の実験を小中学校で行う。英語やプログラミングの授業を行う。

 

私の感想はとてもよいことだと感じた。早急に取り入れていくべきものである。記事に

は、文科省はモニター越しの遠隔教育は子どもの人格形成などにつながりにくいと判断

しているとあった。文科省の人は少し頭が固いのではないか。かつて経験してこなかっ

たことに対してのアレルギー反応は人間として通常のことであるかもしれないが、教育

というこれからの社会の資源を育んでいくという最重要なことをつかさどる機関に柔軟

さが欠けるのはいかがなものか。

 

子どもの人格形成においては確かに他者とのつながり、学校という組織での日常生活等

は遠隔教育では現段階では学校で生活することと比較すると途上であろう。であるなら

ば、まずはそのような集団生活、他者との触れ合いのような場面ではなく、遠隔教育で

可能なことから始めればよい。私の経験上、学校の多くの授業は十分に遠隔授業で可能

である。先生の一方的な解説は生徒にとって単なるインプットでしかない。アウトプッ

トがとても重要にもかかわらずだ。現行の授業だって少なからず一方的な授業だと判定

しても「あたらずも遠からず」ではないか。

 

先ずは遠隔授業で十分代替できるものから始めていき、徐々にその範囲を拡げていけば

よい。いきなり多くのことを遠隔授業に置き換える等は暴挙であり、非現実的である。

このように考えると私はメリットがデメリットよりも多いと感じる。また、学校に行く

ことができない、行く必要がないと判断している人達にとっても遠隔での授業が存在し

自宅等で学習できる環境があれば一つの選択肢になり得る。

 

多様性が叫ばれる昨今、根本的な問題解決ができない問題も出現する。そのような場合

は選択肢を増やすことが先ず第一歩だと私は考える。

乾燥

この時期はとても乾燥する。小さい頃は乾燥の意味が分からなかった。しかし今になる

と乾燥の本当の意味が分かってきた。これは深刻である。顔、手、全身がカサカサであ

る。保湿クリームは必須である。

 

若い時分はカサカサの認識がなかった。実際はカサカサであっただろうがそれが認識で

きなかったのである。つまりその認識ができたかできなかったかが老化の境界線ではな

かろうか。若い時は乾燥なんて意味が分からない。しかし年をとるにつれて乾燥が気に

なる。ということは乾燥を認識した時が若さを手放した時である。

 

季節感は大事にするべきであろうが乾燥の時期はどうだろうか。何か楽しむ要素がある

だろうか。江戸時代はどうだろうか。乾燥にまつわる文化というのも当然あるのだろう

が私の知識にはない。とても興味があるテーマである。

年末年始を迎えて

年末を無事越すことが出来た。誰に感謝するのが筋であろうか。周囲の人には当然だ

が、やはり人間は一人では生きてはいけない。感謝を忘れた時に人は迷うのである。

新年は確かにめでたい、いやめでたいことにすることが世間の常識である。私もささや

かながら繁華街を練り歩き買い物に興じた。

 

しかし、いつも思う事がある。このような時期にめでたい気分になれない人々がいる。

そのような人々を考えると少し悲しい気分になる。それは偽善であろうか。自分自身は

ぬくぬくとした場所で酒をくらっている。それは何を意味するのか。ただ単純に新年を

祝えばいいのだろうか。難しいことは考える必要はない気分でいればいいのだろうか。

否、ここから始まる世の中のあらゆる部分を考える時が今である。考えることをやめた

時、人間は終わらないが私は終わる。

 

そんなことを考えた正月であった。

賀正

新しい年は気持ちを新たにするチャンスである。このような機会はなかなかない。たっ

た一日だけ日が過ぎただけにすぎないかも知れないが、ここから新しい年だというルー

ルを利用するのである。年が変わりまっさらな新しい気持ちになるという決まり事であ

る。新年、その歴史ははるか昔から続いているものではあるが単なる決まり事である。

 

これを利用してやるのである。プラス思考に持っていくのである。つらいこと、いやな

こと、悲しかったこと等を過去のこととしていったん区切りをつけるタイミングであ

る。そう簡単に区切ることは難しいかもしれないが、ルールに従って区切りをつけるの

である。旧暦から新暦となったことは、それが単なる決まり事であるからではないか。

物は考えようなのである。今年は素晴らしい年に決まっている。

ヒヤシンス その11

12月31日、大みそかである。一年の締めくくりである。この日に相応しいテーマはやっ

ぱりこれである。ヒヤシンスである。あれこれ手間をかけたヒヤシンスが咲いたのがこ

の日であればよかったのかもしれないがそれはできなかった。しかし手間をかけている

この時間が最高に楽しいのである。そのように考えれば大みそかにこの記事を投稿でき

たのは幸せではないか。しかもこの幸せはまだ終わらない。まだまだ続くのである。

 

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さて、私のヒヤシンスもとうとう第二段階に達した。それは念願の水耕栽培デビューで

ある。この一か月は長かった。私のやり方が無知で効率が悪いのは分かっている。試行

錯誤の連続だがそれが楽しかった。花が咲く前にここまで楽しいとは思わなかった。

 

一番目のヒヤシンスは根が結構出ている。100円ショップの手作り容器なのでヒヤシン

ス下部に通気口を設けることができた。根も呼吸するらしいのである。

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随分と頭が出っ張って来た。

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二番目のヒヤシンスの成長はまだまだである。根がまだ出ていないため根を出す「根出

し」をやっていたが一向に根が出てこないので市販の容器に入れ水に浸した。腐食を

恐れて水をヒヤシンス下部に少量しか与えていなかったのが原因かもしれない。これは

ヒヤシンス下部を完全に水に浸している。腐食するかどうかの実験でもある。

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さあ、毎日が楽しみである。

アジ、イナダの一夜干し

日増しに寒さが強くなってきている。ここ数日は本当に寒い。北国の寒さはまだ知らな

いが私にとって「凍える北風」がつらい。しかしこのような季節を待っていた私も存在

する。それはなぜか。この季節、この気候でしかできないことがある。

 

これである。魚の一夜干しである。

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以前、この網を使って干しシイタケを作った。そのやり方はただシイタケを網の中に入

れて一週間から十日程度陰干しをするだけだ。驚くほど簡単に干しシイタケができる。

しかし今回の魚の一夜干しは簡単なのだがシイタケを比較すると一手間発生する。作成

はこのような流れになる。

 

1.魚を用意する。どの魚でも良いと思う。好きな魚を選ぶ。もちろん生魚だ。内臓を取

り除き内臓部分をよく洗う。そして開く。背開きでも良い。魚屋、スーパーの鮮魚売り

場で頼めばやってくれるので楽である。また面倒であれば切り身を買えば加工の手間が

省ける。

 

2.処理した魚を濃度8パーセントくらいの塩水に30分から1時間程度浸ける。8パーセン

トとは大体、水量の10分の1より少し少ないくらいだ。大体で大丈夫である。長時間浸

ると塩辛くなるので注意である。

 

3.塩水から取り出しキッチンペーパーで水気を取る。干す際に水が下に垂れても問題な

い環境であれば水気を取らなくてもよいかもしれない。

 

4.網に入れて陰干しをする。次の朝様子を見て、水気が飛んでいれば完成だ。

 

これは完成のアジ。f:id:scop0530:20171229160118j:plain

 

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これは完成のイナダ。

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後は焼いて食べるだけである。私は確実に市販の干し魚よりも美味しいと思う。そして

利点はもう一つある。それは好きな魚、どんな魚でも可能である。普段は市販されてい

ない魚も自作すれば食べることが可能である。今回はアジ、イナダを一夜干しにした。

味は保証付きである。 

みかん

ここ最近はみかんがお気に入りである。この季節は果物の種類が少ないように思える。

りんごもとてもうまい。そして種類も豊富である。しかし最近のみかん好きの私はみか

んについてより多くの意見を持っている。少し述べてみたい。

 

みかんはいつでもどこでも食べることが可能である。可能という言葉を使用するとどん

な食べ物だって可能かも知れないが、ここでいう可能とはその食べ物を食べていても不

自然ではないということである。例えば街中でみかんを食べていたとしよう。普通であ

る。職場でお昼休みにみかんを食べていたとしよう。普通である。しかしりんごをかじ

っていたらどうだろうか。もちろん、家で切って来たりんごをフォークを使って食べる

ことには異議なしであるが、丸かじりはどうであろう。かなりワイルドな印象を与えて

しまうのではないか。みかんは包丁を必要としない。ここがりんごと決定的に異なると

ころである。

 

みかんの良さをうったえたつもりが話がずれてしまっので本題に入る。店頭で売られて

いるみかんは値段が豊富である。なぜこんなに値段が異なるのかと消費者には伝わりに

くいと思う。しかし思い切って割と高い値段のみかんを購入してみたら、何とどのみか

んもハズレなしであった。以前は割安のみかんを選んでいたのだが当たりハズレが激し

かった。しかし私が買ったみかんは驚く程当たりだ。なぜこんな事が起こるのだろう

か。全ておいしいみかんにすれば良いのではないか。それができたら苦労はしないか。

そこに何が存在してどのような作用があるのかは私には分からない。

 

この経験は不可逆的である。つまりもういまいちなみかんには戻れないという事であ

る。このみかんに出会えて幸せだと思う一方、世の中にはこのように知らなくて味わえ

ない様々な味、サービスが存在しているのだなと考えるのである。