みかん
ここ最近はみかんがお気に入りである。この季節は果物の種類が少ないように思える。
りんごもとてもうまい。そして種類も豊富である。しかし最近のみかん好きの私はみか
んについてより多くの意見を持っている。少し述べてみたい。
みかんはいつでもどこでも食べることが可能である。可能という言葉を使用するとどん
な食べ物だって可能かも知れないが、ここでいう可能とはその食べ物を食べていても不
自然ではないということである。例えば街中でみかんを食べていたとしよう。普通であ
る。職場でお昼休みにみかんを食べていたとしよう。普通である。しかしりんごをかじ
っていたらどうだろうか。もちろん、家で切って来たりんごをフォークを使って食べる
ことには異議なしであるが、丸かじりはどうであろう。かなりワイルドな印象を与えて
しまうのではないか。みかんは包丁を必要としない。ここがりんごと決定的に異なると
ころである。
みかんの良さをうったえたつもりが話がずれてしまっので本題に入る。店頭で売られて
いるみかんは値段が豊富である。なぜこんなに値段が異なるのかと消費者には伝わりに
くいと思う。しかし思い切って割と高い値段のみかんを購入してみたら、何とどのみか
んもハズレなしであった。以前は割安のみかんを選んでいたのだが当たりハズレが激し
かった。しかし私が買ったみかんは驚く程当たりだ。なぜこんな事が起こるのだろう
か。全ておいしいみかんにすれば良いのではないか。それができたら苦労はしないか。
そこに何が存在してどのような作用があるのかは私には分からない。
この経験は不可逆的である。つまりもういまいちなみかんには戻れないという事であ
る。このみかんに出会えて幸せだと思う一方、世の中にはこのように知らなくて味わえ
ない様々な味、サービスが存在しているのだなと考えるのである。